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明石健志 背番号36 内野手 打撃はシュアー、送球はフワーなユーティリティープレイヤー。 2003年にドラフト4位指名で山梨学院大学付属高校からダイエーホークスに入団。出身は北海道旭川市。 NPBの1打席ファウル数記録保持者。 コーチらから「天才」と呼ばれる打撃センスを持ち、特に三塁打の多さから「ミスタースリーベース」とも呼ばれる。元チームメイトの森本学は「初めて見た時から天才や、敵わんと思った」、杉内は「明石は天才ですね。何でもできる」と語っている。そのため、明石がヒットを放つと「これは天才明石」「やはり天才か」とスレに書き込まれることも。 俊足と巧みなバットコントロールが武器だが、故障に悩まされたこともあってか、やや?送球に難がある。ショートで出場した際にはゆるふわ系送球でたかせん民の胸をときめかせる(悪い意味で)。 ルーキーイヤーの5月2日に1軍デビュー。プロ入り初打席初安打が三塁打となり、いきなりミスタースリーベースの片鱗を見せる(下記参照)。も、2軍にいることが多かった。 2009年にロッテ小林宏からプロ入り初ホームラン。この年、楽天岩隈に対しては、5打数5安打1四球2三塁打とシーズン対戦打率10割を残す。なお、この件で契約更改で微妙にゴネるも「岩隈以外からは別段打ってない」とあしらわれる。 2010年は内外野7ポジションを守るもレギュラー定着ならず。 2011年は故障もあって出遅れたものの、ベテラン勢の調子が上がらない中、シーズン終盤は福ちゃんと共に、明福コンビとして大活躍。10月14日には、解説黒木が「手首がしっかり回ってるので、球が内側にくるとライト方向へ強い打球を打てますね」と発言した直後に、内側に入ってきた変化球をライトスタンドへホームラン。プロ2号目のホームランとした。黒木のドンピシャ預言に観ていた者騒然。黒木ドヤッ。 2012年シーズンは、川﨑がメジャー挑戦する中、オープン戦では大活躍で開幕スタメンショートの座を勝ち取った。が、ゆるふわ送球や疲れ、故障者続出に、なまじ基本器用なだけにたらい回しにされ、シーズン後半は今宮にその座を明け渡すこととなってしまった。 2012年6月5日の巨人戦では、相手山口の開幕から24連続無失点というセ・リーグタイ記録、さらに球団ワースト記録となる連続本塁打なしを右越えソロで阻止。「記録のことは知りませんでした」とのことだが、試合結果はryだったため、正しく実質勝利の一振りとなった。7月7日には1打席ファウル数の日本記録を更新(後述参照)。日ハム・スレッジ故障により、補充選手という形ではあるがプロ9年目にして初のオールスターに出場決定。住民がビクビクする中、第2戦ではセンターに抜けそうな当たりに飛び付く 超 フ ァ イ ン プ レ ー を敢行。たかせん民「奇跡」「いつもそれやれや」「あのショート欲しい」など騒然。他にめぼしい選手がいなかったこともありまさかまさかの敢闘選手賞をゲット。なお、第3戦ではいつも通りの守備ry 2014年シーズンは夏場に松田・吉村、本多と続けざまに離脱すると代役に入り、スタメン起用された。93試合で打率.252、1本塁打21打点、17盗塁の成績を残し、数字以上に存在感を発揮した。 2015年シーズンは本多の怪我で二塁手争いが激化するものの、夏場に調子を上げると慶三と交代という形でほぼレギュラーに定着。自身初のシーズン3本塁打を決めたかと思えば日本シリーズでもプロ通算8本塁打しかマークしていなかったにも関わらず、HRを打つなど16打数7安打7四死球と天才っぷりを発揮し、日本一に貢献。優秀選手賞を受賞した。 エピソード 内村(DeNA)は山梨学院大学付属高校時代の同級生。先輩には巨人松本がいた。 入団当初は同期の城所、金子と顔の区別がつかないとファンからよく言われた。2人とは「全員B型で気が合う」らしく、特に城所とは「とべとべホークス」内で“俊足青春アミーゴコンビ”と言われたことがある。 ホークス選手の多くと同じように、釣り好き。優勝旅行先のハワイでも釣りをしていた。 その外見から、チームメイトに「チャラ男」と呼ばれることも。特に、鴎に西岡が在籍した時は「西岡と入れ替わってもバレない」と言われたりもした。2012年始めは髪を染めていたものの、曰く「師匠に言われて」(たかせんの見解では小久保)黒髪に戻している。 オフのトークイベントで、スタッフが着ていた緑色のどん兵衛のハッピを着ることに。実際に観に行った住民曰く「とても似合っていた」とのこと。また「普通の兄ちゃんにしか見えない」とも。イベント中は、「(内川の顎に触ることができて)うらやましいでしょ~?」などと、不思議テンションでお送りしていたもよう。 お立ち台では「~ね」と言うことが多く、友達に対するようなインタビューとスレで言われる事も。なお、この件に関しては、出身の北海道方言ではないかという見方がなされてもいる。 外見や今一つ成績が残せないためか、「熱さが足りない」と言われることもしばしばだったが、2011年8月19日ではヒロイン後のベンチ裏インタビューで涙を流したことを、球団公式Twitterに暴露されている。 ヒロインを終えてベンチに戻ってきた明石選手。笑顔で「ああー、おもしろいコト言えなかったです!」 しかし、ベンチ裏のインタビューでは感極って号泣!?気味に涙。「……カッコワル。(笑)」と泣き笑いでロッカーへ…… 「今年はリハビリだったり、正直辛いことが多かったです。でも、自分を信じて頑張ってきて良かったです。大好きな野球ができない、本当に苦しかった。大声援、たくさんの勇気をくれてます。全てのファンの方に感謝です。」 内外野に限らず、その気になれば捕手もこなせる器用な選手。2011年8月26日の鷲戦で細川が怪我をした際、万一に備えて細川の防具を身につけると、何事もなくムヨンの球を受けている姿が目撃された。なお、本人は小中時代も本格的な捕手経験はないが、ムヨン曰く「直球も変化球も普通に取れてましたよ。安心して全力で投げ込めました」とのこと。明石△である。 入団当時から凡退時は悔しさを露にし、城所からは「凄まじい奴。でもこういう奴こそプロで残るんだろうな」という第一印象を抱かれていたらしい。ちなみに一軍定着は城所の方が先である。入団前には野球雑誌に情報がほぼなく、城所が「明石ってどんな選手ですか?」と尋ねると、スタッフから「隠し玉」と返事されたのだとか。その後、プレーを目にして「どうしてこんな凄い選手が取り上げられないんだ」と驚いたとのこと。 明石本人は「プロ野球選手になれなかったらどうしていたか」という質問にも「? なれるものと思っていました」と飄々と返している。 好きな女性のタイプは「自分を上手に転がしてくれる人」。2012年11月25日にそんな年上の女性との結婚を発表。結婚して以来、毎年奥様に花束をプレゼントしているらしい。 2016年には入場曲に使っているMs.OOJAの『Be...』の新プロモーションビデオにまさかの単独出演。奥様への感謝の気持ちを言葉やメッセージにして語っている。 2012年シーズン前こそ、今宮とポジション争いを行ったが、普段は普通に仲良く、物をあげたりしている。 サファテと親しいようで、2014年オフに帰国の途につくサファテを見送ろうと、球団スタッフを通じて帰国便を調べて福岡空港に駆けつけている。 応援歌について 「暗い」「渋い」「地味」と言われる重低音が特徴。「ドームに響く声を受けて 今だ明石振り抜け」という歌詞であるが、2009年頃より屋外球場の場合は歌詞の「ドームに響く」のところが変わるように。 +... Kスタ宮城→「仙台に響く」 千葉マリン→「千葉に響く」 横浜スタジアム→「浜に響く」 秋田球場→「男鹿に響く」 帯広球場→「道東に響く」 帯広6回限定→「六花亭に響く」 旭川スタルヒン球場→「故郷に響く」 ミスタースリーベース ルーキーイヤーのプロ初安打初打席が三塁打(相手は檻の川尻)。 二軍時代にもその年の最多三塁打の8を放っている。 2011年は打席数が105ながら、チームメイトのムネ・ポン・マッチに次ぐ5本の三塁打を放っている(パ・リーグ内3位)。 2012年3月3日放送のローカルスポーツ番組「ビバスポ」にゲスト出演した際には、「2011年に何本の三塁打を打ったか」がプレゼント当てクイズ問題に出される。 2016年9月30日には、ついに振り逃げスリーベースまで達成した。 明石の19球 2012年7月7日のハム戦で、9回2死走者なしから19球粘って1打席最多投球数の日本記録タイを記録(結果は四球)。65年ぶり、2リーグ制では初の記録となった。なお、15ファウルは日本記録更新となる。鳥越コーチからはその後、「“前に飛ばないTシャツ”を明日から発売やな」とからかわれたもよう。なお、以下のようにこの打席中ボール球以外はすべてファウルであった。 1球目 ボール 2球目 ファウル 3球目 ファウル 4球目 ファウル 5球目 ファウル 6球目 ファウル 7球目 ファウル 8球目 ボール 9球目 ファウル 10球目 ファウル 11球目 ファウル 12球目 ファウル 13球目 ファウル 14球目 ファウル 15球目 ボール 16球目 ファウル 17球目 ファウル 18球目 ファウル 19球目 ボール=四球
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金子圭輔 背番号4 内野手 2003年ドラフト6位指名で千葉の志学館からダイエーホークスに入団。2010年まで在籍したのち、トレード(後述参照)で2年間檻に移籍していたものの、2012年から再びトレードでホークスに復帰し住民を驚かせた。 球団内では「ネコ」(「カネコ」だからか)と呼ばれているもよう。また、2015年シーズンはウエスタンで若手の兄貴分として親しみを込めて「キャプテン」と呼ばれだしたそう。 安定した守備・走塁能力が武器。地味にホークスでは唯一のスイッチヒッターである。高校時代は投手だったため、肩も強い。 ホークス時代 入団当初から、同期の城所、明石と顔の区別がつかないと言われることしばしばであった。明石曰く「三人B型で仲が良い」そう。城所には月ホで「ただ、親友。理由はない」と言われている。入団当時の背番号は「53」。 内野をどこでも守れるとして期待を集めたが、打撃はお察しくださいという量産型タイプの一人だったため、なかなかチャンスを得られず。 2009年に荒金と一緒に、金澤と2対1のトレードをされ、檻へ移籍。背番号は「54」。トレードに関わったメンバーが、荒金・金子・金澤と、偶然3人とも名前に「金」が付いたことが少しだけ話題となった。 オリックス時代 2010年は檻でそこそこの出場機会が与えられ、攻守っぷりがパリーグチャンネル動画に数度UPされたことも。中でも8月の猛アピールは打にも及んだ。8月4日の西武戦で獅子・中島の難しいバウンド球を冷静に捌いたプレーは一見の価値あり。後日張本に「守備だけで飯が食える選手」と絶賛された。しかし、彼の外見を見て皆が思うことは「もっと飯を食え」である(※下記の痛風再発予防のため、太るのは難しいのではというのがたかせんの一部見解である)。なお、本人は少食というわけではなく、『選手が選ぶグルメそうな人ランキング』でも4位にランクインしている。明石曰く「贅沢病」。 2011年にはなんと背番号「6」を与えられ、開幕1軍スタート!いけるでと思った矢先に痛風や他選手の台頭により、ヒット1本もないままオフを迎えてしまった。 2012年1月17日に、高橋秀とのトレードが決まり、まさかの2年で出戻り決定。おかえり!相変わらず内野争いは熾烈だが、守備面での安定度は一歩リードか。 ホークス出戻り以降 2012年遊撃手争いでは、「明石の打撃、今宮の守備、金子の応援歌を合体させたい」と住民に言われていたが、開幕後は一人出番がなく、もっぱら影薄状態である。 が、その一方で交流戦では途中まで完全に抑えられていた巨人・澤村からチーム初ヒットを放ったり、二軍に落としたとたん内野手に怪我が出たりと、プチ座敷わらし的存在になっている。 2013年には長打力が増し、出場試合数こそ少なかったものの「強打者金子」「俺の知っている金子じゃない」と住民に言われるほど、打つほうで存在感を示した。 2014年シーズンは、本多の離脱もあり夏場にスタメン機会を得ると、8月3日のハム戦ではまさかの大谷撃ち。さらに8月12日にはプロ11年目にして初のお立ち台を経験。チームを9連勝に導くなど、出番が少ないながらも嬉しいシーズンとした。ちなみにスタメン時のチーム勝率ランキングというデータ内において、スタメン12試合中11勝1敗・勝率.917とし、ぶっちぎりで1位を獲得している。 2015年シーズンはほとんどを二軍で過ごすことになるも、優勝争いをするチームを引っ張り、ウエスタン4連覇を決めた9月20日には水上二軍監督の次に胴上げをされた。ウエスタンで投手でもなく胴上げといえば、田上の一件もあり、引退かいや4連覇と背番号「4」を掛けてだろうなどと憶測が飛んだが、上記の通り若手の見本、チームの中心的人物としてということだったらしく、本人も引退を否定した。迎えたファーム日本選手権では先制の適時打を決めるなど活躍し、日本一に貢献 優秀選手賞を獲得。先日憶測が飛びかったばかりだったためか本人は軽く拒否したものの、やっぱり水上二軍監督の後に仲間たちに胴上げされた。なお翌2016年も2年連続2度目の胴上げをry 一軍に数度呼ばれはしていたものの、2016年オフに戦力外通告を受けた。 エピソード 2012年に伊藤由奈似の6歳年下の女性との入籍が判明。ホークス出戻りが決定し、「今のタイミングしかない」とプロポーズしたらしい。2016年8月には第一子となる長女が誕生している。 誕生日は7月23日で、チームメイトの塚田と一緒。 好きな色は緑で、リストバンドも同色を使っている。 幼少時代に、野球教室に来ていたボブさんに「この子は将来プロになれる」と言われたことがある。 高校時代は、投手としてばっさんと投げ合い、勝ったことがあるのだとか。 檻時代は、同じ名字の金子千尋たんがいたため、圭輔の方に配慮した千尋たんが「金子千尋」と表示名を変えてくれていた。おりせんではT-岡田にならって「K-金子」と表記されていたもよう。 2011年オフに檻が高橋信二を獲得したことで、背番号6を明け渡すことに。本人はこの件について、「変更はお金もかかるし大変」としながら背番号6になり喜々としてユニ番号をそろえたことに触れつつ、いっそ新背番号は54(去年の背番号)がいいなとほんわか自虐をしていたもよう。 出戻りした頃には既に、元背番号「53」を柳川が付けていたため、「どうして53を選んだんですか」と冗談混じりに柳川へ突っ込んでいる。 ホークス時代のキャンプ練習メニューはかなりエグかったらしく、2012年に復帰を伝えられたときは、真っ先にキャンプのことが浮かんで「きつい」と思ったとのこと。 復帰会見ニュースを観たさとるに、「ガリガリやないか!」と突っ込まれる。 オリックス移籍後も、一緒に移籍した荒金同様ホークス時代の応援歌がそのまま使用されていたが、若干アレンジされていた。
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松田宣浩 背番号5 内野手 名前の読みは「のぶひろ」。「熱男」ではない。愛称は「マッチ」。二卵性双生児で兄がいる。 割と男前な顔立ちであるが、とにかく天然。でも繊細。 パンチ力のあるビックリ箱な打撃とまばたき、高い身体能力による守備が武器。守備は入団時があまりにも悲惨だったため、「松田の入団時を思い出せ」と若手の守備成長の引き合いに出されたり、「本当に守備が上手くなったな」と、実感を込めて言われたりする。 ある意味お祭り男なのか、好調だろうが不調だろうがチャンスで打席に入ることが多く、しばしばスレでも「まーたチャンスが松田を追い回しているのか」「チャンスがまた松田をストーキングしている」などと言われることも。 2015年の球団スローガン「熱男」を気に入り、「自分のスローガンとしてずっと『熱男』でいきたい」とコメントしている。HRを打ってベンチに戻る際に「熱男~!」と叫ぶことでおなじみで、一部からは名前が「松田熱男」と誤解されることも。また、チャンスで打った後輩らにも熱男と叫ぶようにとしばしば熱男ハラスメントをしている。2016年にスローガンが続投決定すると、HR後にベンチに帰還→客席と一緒に「熱男~!」とコールするのがおなじみとなった。 亜大の後輩・東浜が登板の時はなぜか活躍することが多い。 希望入団枠として2005年に亜細亜大からホークスに入団。 かぷてん・松中の後を次ぐ将来の大砲として期待されながら、守備でやらかしたり打撃も物足りないものであったりデッドボールによる離脱が多かったりと、もう一つ足りない選手だった。 ところが2011年に打撃が覚醒し、多くの選手が統一球の影響により打撃成績を落とす中、打率.282、25本塁打(リーグ2位)、83打点(リーグ5位)、27盗塁を記録。フルイニング出場してホークスの快進撃を支え、終盤には4番も務めた。課題の守備も上達し、シーズン終了後にはゴールデングラブ賞受賞。 トリプルスリーも狙えると迎えた2012年は10回の盗塁成功 10回の盗塁連続失敗(再三の厳しい判定含)など謎なことをやらかしつつ打撃好調維持。が、8月にまたも死球で泣かされることに。 2013年シーズンには第3回WBCメンバーに選出。一方、シーズンでは全試合出場を果たしながらも四番の呪いにかかるなど、一進一退の内容となった。 2014年シーズンからは新たに選手会長に就任。5月6日のハム戦で史上2人目のサヨナラ振り逃げを記録。5月13日の鴎戦で放った決勝弾が、プロ野球通算9万5000号となるメモリアルアーチ(日本人選手が区切りの一発を放ったのは、1997年の駒田(横浜)の7万号以来、実に17年ぶり)。怪我でオールスターを辞退するも、9月10日には亜大の先輩であるハム木佐貫から初BIWAKOを放ち、球団通算8000号を決めるという記録づくしに。さらにさらに、勝てばリーグ優勝が決まる檻戦「10.2」では、1対1で迎えた延長10回裏一死満塁の場面で左中間へサヨナラ安打を放って涙をこぼし秋山監督と抱き合った。また、日米野球の第2戦でHRを元チームメイトの和田から放つと、9回には8-4で日本の大量リードだったにも関わらず敬遠された。日本の打者が敬遠されるのは96年松井秀喜以来の大記録。 2015年6月9日の阪神戦で岩田からHRを放ち、お祭り男にふさわしく通算1000本安打という節目を自身で祝った。また、この年はプロ10年目にして自己最多となる35HRをマークしている。 アホの子として ホークスのアホの子軍団の筆頭。最近は他球団ファンにもアホキャラがバレている。それゆえ、檻の糸井、竜の平田、そして松田を現NPBの3大アホの子と呼ぶ声も絶賛増加中。球団内では松田、大場、柳田が鷹の3大アホの子である。ちなみに本人は柳田を「アホっすよ」と語っている。 周囲による松田評 「Going!」評「ちょっと天然」 「すぽると!」評「ちょっとおっちょこちょい」 カブレラ「チョットアタマバカ」 岩隈「ホークスで一番何をするかわからない打者」 ダルビッシュ「松田さんは良く言えば何も考えていない」 長谷川「見ていて面白い、28歳とは思えない」 本多「やることが18歳くらい」 炭谷銀次朗「野獣系」 田中マー「何を考えているのかわからない」 川﨑「ヒー・イズ・エナジーボーイ!」 エピソード 奥さんのことは「恵理ちゃん」と呼んでおり、お子さんは男女一人ずつ。お子さんが生まれた年はどちらもチームが優勝している。 目が常時しぱしぱしている。森本学曰く「酔っている時は瞬きしない」とのこと。本人も「コンプレックスは……やっぱりまばたき」と言ってるが、同時に女の子に「カワイイ」と言われることもあるとチャームポイントにもしている。松田てめぇ。 明るいが、プロ入り数年までは結果を残せずベンチでも声が出せなかったとのこと。2014年に今宮がエラーから硬くなった際には「俺達が声を出すからお前は笑顔でいろ」と松田流に励ましている。また、過去に森福が気になるところは叱るべきだと提案した際にも「みんなが叱れば相手は萎縮してしまう。叱らないで話を聞いてやる人間がいてもいいはず」と断った。大学時代は言葉ではなく姿で引っ張るタイプであったらしい。2014年に選手会長を任せられてからは前にもましてベンチで声を出し、試合後には声が掠れるほど。2015年のリーグ優勝時には晃に「松田さんのような選手になりたい」と手記で名前を挙げられた。 不格好なスイングからは想像もつかない飛距離のホームランが魅力。「きたないホームラン」と言われることも。とある日のヒロイン「(地元の)琵琶湖まで飛ばしました!」発言により、彼のホームランをたかせんでは「BIWAKO」と呼ぶ。 2011年より以前は特に、明らかにボール球を打ってホームランなど悪球打ちが目立ち、楽天・岩隈無双の年にパで唯一彼からホームランを打ったりもしている。そんなこともあってか、岩隈には苦手意識を抱かれていたもよう。2014年の日米野球でも岩隈と対戦し、ヒットを放っている。本人はバットコントロールが上手い選手ランキングで、悪球打ちで知られる檻の後藤の名前を挙げている。やはり惹かれ合うものがあるのか。どちらかというと見習うべきは、1位となった顎の先輩のはずだが…。 マーク・クルーンがNPB史上最速となる162km/hを計測した時の打者で、結果は空振り(三振)。史上最速とはいえ左打席を通過する糞ボールを空振りする映像が、全国ニュースで何度も使われるハメになった。 多村にも「マッチはこっちが予想もしていなかった球を狙っていたりする。ウエストボールとか」と発言されている。 上記理由も関係してか、後輩の福田にはその日の試合のヒット数を張り合われてドヤ顔されたり、他の先輩にはアドバイスを求めても宣さんには聞かないですけどと発言されている。 死球の避け方がとにかく下手で、死球になればたかせん民ビクビク。他選手が上手く避けていると「松田も見習え」というレスが飛ぶことも。ただし、その回復スピードは常人を遥かに凌駕する。 歌は苦手らしく、ファン感でいざゆけ若鷹軍団を歌うことになったが内川に押し付け逃亡。 遠征先のホテルではピンポンダッシュ。 師匠のはずの松中からの電話にもなかなか出ない。 ロッカーでは他の選手にカンチョー。 実はNPBで初めてTwitterを始めた選手、に当たるらしい。 チームメイトの登場曲を変えるイタズラを盛んに行う。 特番で中日吉見を「コントロールで勝負する、パ・リーグにはいないタイプの投手」と評価。ちょっと違うけど、自チームのこの人を忘れてる。チーム内では評価が違うのか? すぽるとの『2011年プロ100人が選ぶパワーヒッターNo.1』にて5位にランクイン。檻の岸田から「別に体は大きくないのに」と言われていた(実は身長体重はかぷてんと同じくらい)。前手ギュンドヤッ。 ビジターでのヒロインでは猫をかぶっている。あれは…亜細亜大野球部キャプテン松田!? 骨折した右手を酸素カプセルに突っ込んで治そうとしたことがある。 兄について松田曰く「追いつきたくても追いつけないくらい(野球が)上手かった。」との事。兄は社会人でプロを目指していたが、左足アキレス腱断裂の大怪我でプロの道を絶たれてしまった。 オールスターで解説席に回ったマエケンに「打った後じゃなく、打った瞬間に『シャーッ』って言っていた」と大笑いで暴露される。また、この時にベンチの雰囲気を尋ねられた選手のほぼすべてが「松田さんとかが盛り上げてくれてるんで」と率先して松田の名前を口にした。 松田が頭部に死球を受けた際、松田母は家においてあったヘルメットを実際に自分でかぶってコツンと叩き、「これくらい叩いても衝撃が来るんだから、あんな速球を受けたら衝撃ももっと凄いんだろうね」と松田父と話したとのこと。案の定、解説者の池田親興には「松田はお母さん似なんでしょうね」と突っ込まれた。 解説者の福本豊氏に気に入られているようで、2014年10月2日に自らサヨナラ打を放ちリーグ優勝を決めた試合後には「シビレました。最後の松田のヒット、一緒に観てた人に『福本さん泣いてんの?』って言われて気付いたら目から何か出ててん…。ボクは松田と言う選手が好きやねん。いつも一生懸命で常に前向き。いつも全力疾走。あの場面で打席が回って来たのも彼が持ってる『運』そこで結果出せたのは『日々の積み重ね』なんやろね」とコメントを寄せられている。 2014年の日本シリーズ前に行われた決起集会では、「おまえに言うことは何もない。そのまま、やってくれ」と秋山監督から言葉をかけられた。 松田語録 (同点HRを打って)「反撃反撃おっしゃ~!」 (統一球について)「今年のボールはよく飛ぶんですよ!」 (北京ダックを見て)「これ鳥ですか?」(鳥以外の何に見えるんだと聞かれて)「あひる」 多村「他球団で凄いと思ったプレーは?」 松田「北九州で内川さんと…」←自チームゥー! (CSでHRを打った際、球種を周りから聞かれて)「打ったのは白いボールでした!硬球!」→解説者の黒木から「確かに人間、集中すると〜」と云々かんぬん優しい熱いフォローが入るが、たかせん民一同「そんなに物事を深く考えているはずがない」と全否定。 (番組のコーナーで懺悔することになって)「懺悔って何でしたっけ?」 (なくて七癖の意味を聞かれ)「癖が7つあること!」 (フライばかり打ってしまいます。どうしたらいいですか?という少年の質問に対し)「ゴロを打てばいいと思います」もはや、とんちの世界である。 (監督の印象を聞かれて)「めちゃめちゃ好きっス!」「LOVE寄りのLIKEです」 (「黙っていれば男前」と言われ、数分沈黙)「……喋ってもいいっすか?」我慢してみたらしい。 (2012年4月10日のホームラン談話)「打った瞬間でしたね。すくう感じでうまく…うまく?…か、力一本で打てたかどうかはわかりませんが。打ててよかったです」 (同じ日にHRを打った同県民の中西に)「ガーシー(滋賀)コンビやから、打ってくれると信じてた!」 (29歳の誕生日に抱負を聞かれて)「ニクニク頑張ります!!!」 (結婚したきっかけを聞かれて)「両思い・・?」 (ボール球を打ったのではないかと聞かれ)「ストライクかボールかちょっとわかんないんですけど、ホームランになる球でした」 前手ギュン 言わずと知れた(?)マッチの必殺技。巷で噂の前手ギュン ボールを前で捉え、手首をギュンと押し込むことでボールを飛ばす。ちなみに「前手をギュンと押し込む」ではない。名前の由来は元鴎の金泰均(キム・テギュン)。WBC韓国代表の元四番でかつては圧倒的な飛距離を出していたことから命名。2011年、色んなバッターが苦しむ中、統一球対策でこの技を会得したことで打撃が覚醒し、キャリアハイでリーグ2位の25本の本塁打を記録。内川が「(統一級制度が導入されたことで)ボールを前でさばける選手が飛躍した」という内容のことを言っていたことから、統一球対策としては的は得ている模様。ネーミングセンスはさておき、やってることは間違いじゃない模様。 実はこの必殺技はマッチ自身のリストの強さに秘密がある。なかなか真似できるもんじゃないみたい。実際に松田のホームランシーンをよくよく見ると、体勢が崩れた状態でもホームランにしていることが割と多い(完璧なフォームじゃなくてもホームランになっている)。これがこの必殺技のスゴイところ・・・なのか? 2012年4月1日の檻戦でのタイムリー談話で「巷で流行りの『前手ギュン』です」と発言。が、全国紙では「自身の打法を『前手ギュン』と命名」と載る。いや、今更命名したわけでは・・・。 いろんなところで「前手ギュン」って言ってる割には、知名度が低い…とか何とか思っていたら、2012年に「Going!」の亀梨ホームラン企画で前手ギュンを2週にわたって伝授することになり一躍知名度がアップ(一部で)!その効果や松田のお馬鹿じゃない喋りに「指導者イケるやん!」とたかせん住民も絶賛。 2012年シーズン途中には、堂林(鯉)が松田の打撃を取り入れたことも。堂林から猛鷹魂を感じる。 ついに2013年のスポニチ選手名鑑の松田の欄に前手ギュン打法の文字が。 おっとっと ○/ ゝ 「 / ○ノ \ ヽ ○/ (∧ ))) 「歌舞伎ステップ」という別名も持つ松田の動作。由来は打席でファウルや空振りした際に、打席を飛び出し片足でケンケンすることから。本人曰く、「これが出るのは調子の良い時」とのこと。 2013年のオールスターでは、阪神のマートンから、この打法をテレビでよく見ていて、興味があると言われたとのことで、目の前でモノマネまで披露されたらしい。日ハムのレアードとも練習中にケンケンしてはニコニコする仲。以上の通り、特に外国人選手の目に奇異に映るのか2014年の日米野球でも、試合前に相手側チームに呼ばれてモノマネを見せられている。
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中村晃 背番号7 外野手 スレでの呼び名は、「アキーラ」「アッキーラ」「晃」ときどき「玉ねぎ」。 チーム内ではその風貌(ちんくしゃorぶさねこ系)からか、「玉ねぎ」「玉ねぎ王子」と呼ばれている様子。笑顔の可愛さに定評がある。 選手応援歌に「愛する男さ」という意味深な歌詞が使われている。実際に、鴎のズーちゃんを始めとするマスコットたちや鯉のスライリーなどにまで懐かれている様子が見られることも。 脇をパカパカと動かしながらタイミングを取る独特の脇パカフォームが特徴。2015年には福ちゃんにも承諾なしに取り入れられた。 その打撃センスは、当時2軍でコーチをしていた宮地から「平成生まれで最初に2000本安打を打つのはオマエだ!天才的な打撃センスがある」と言われるほどで、粘ることもできるが、ちょっぴり「持ってない」疑惑がないこともない。スタメンで結果を残すタイプなので長い目で見よう。ちなみに入団当初、本人が目指していると発言したホークス選手は柴原と大村である。口数は多くないものの、闘争心はギラギラ。 2007年に帝京高校からドラフト3巡目指名で入団。入団当初の背番号は「60」。 帝京高校時代は主将兼一塁手をつとめ、松井秀喜と並ぶ高校通算60本塁打をマーク。甲子園に三季連続で出場し、2007年夏優勝の佐賀北の前に準々決勝で立ちはだかり、シフトを敷かれていたにも関わらず「レベルが違いすぎる(佐賀北サイドの弁)」打撃を見せた。その時の鮮烈な印象から、「中村って、あの帝京の中村か」と他球団ファンから言われることもしばしばある。帝京がアライバプレーを見せた時に、最後、一塁で捕球したのがこの中村である。 2011年には怪我人続出というチーム事情も絡んで、1軍初出場。5月の檻戦では、寺原から初安打初打点初盗塁(しかも三盗含む)初得点初猛打賞を記録!自身の怪我等絡み、夏場以降は出番がなかったものの、本人曰く「足は特に速くない」そうだが、福ちゃんとWスチールを決める(福ちゃん本盗)など、たかせんを大はしゃぎさせた。なお、本人は良い意味でふてぶてしい顔をしており、この時もベンチで「もっと喜べ!」「元々こういう顔してるだけで、すごく嬉しいっス」というやりとりがあったもよう。 2012年シーズンは一軍と二軍を行ったり来たりしつつ、ウエスタン首位打者と最高出塁率の二冠をゲット。 2013年はWBCで主力が欠けたこともあってオープン戦ではリードオフマンとして定着し好成績を残すも、初打席でヘッドスライディングし右手小指を骨折し離脱。完治はしていないが交流戦で復帰し、粘りのバッティングで高い出塁率を維持し、交流戦の最多得点を獲得。6月23日の鷲戦ではプロ入り初HRを決めた。最終的に自身初の規定打席到達を果たし打率.307(リーグ7位)、出塁率.3918(リーグ4位)の好成績を残した。 2014年シーズンは、交流戦の守備中に球が跳ね返って目に当たり一時ヴィジュアル系玉ねぎとなったが、大きな波もなく安定した成績を残し、176安打を放ち最多安打に輝いた。なお、内川、長谷川に続く受賞で、三年連続で同一球団の異なる選手が受賞するのはリーグ史上初。日シリでは苦しみながらも、第4戦にオ・スンファンからサヨナラHRを放つなど存在感を見せ、オフに背番号が「7」に変わることが発表された。 2015年シーズンは、なまじ打撃が安定していただけに一塁・外野と守備位置の移動、たび重なる打順の変更と公康をして「頑張ってくれた」一年を過ごしながら3年連続打率3割(ちなみに3年連続で2塁打を22本放つ)でフィニッシュした。オフには怪我の内川に代わりプレミア12に選出されると打率6割越えをマークし、セパの野球ファンを唸らせた。 エピソード 周囲には、事あるごとに「寡黙」と言われることやその佇まいから、長谷川と並んで「いぶし銀」「職人」と呼ばれる。だが、高谷のものまねを「大げさすぎ」と突っ込むなど言う時は言うようで、柳田にも面白いヤツ認定をされている。本人は「ノリがいいわけではないが、はしゃぐ時にはちゃんとはしゃぐ」とのこと。実際に、2016年5月6日に活躍しお立ち台に上がるとこの日誕生日を迎えた高田をお立ち台に招き、美声でハッピーバースデーを歌い上げた。 誕生日は11月5日で、拓也やラヘアと同じ。 好きな食べ物はサバ。煮ても焼いても美味いから。 チーム内で尊敬している人・オシャレだと思う人は長谷川で、気づかれない程度に彼の服装を参考にしているらしい。 座右の銘は『野球を差別する人は、野球に差別される』。これは鳥越の言葉で、一軍と二軍を行き来して歯がゆい思いをしていた当時、鳥越コーチが『野球を差別する人は、野球に差別される』と言って、一軍でも二軍でもやることは一緒と教えてくれたことが印象に残っているからとのこと。 横浜の大田阿斗里、ハムの杉谷、虎の原口は帝京高校時代のチームメイトであり(特に大田は学年も同じで、対決が実現しそうになると「同級生対決」「帝京対決」と騒がれる)、球史に残る馬鹿試合として知られる智弁和歌山-帝京戦にも四番バッターとして深く関わっている。 帝京OBである芸能人石橋貴明に存在を知られており、2013年9月23日には鴎戦を観戦した石橋から激励までされた(会うのはこの時が初めて)。野球盤に呼ばれる日を楽しみに待ちたい。ちなみに2014年放送の野球盤に呼ばれたものの、日程の都合がつかず見送り。2015年放送回は怪我のため、またまた見送りとなった。 2012年ホーム最終戦後のセレモニーでは、ノーノーをくらったことにおかんむりの監督による公開決意表明会がサプライズ開催。選手・ファン「!?」背番号順で列の一番端にいたがために、先陣をきることになってしまった。帝京時代にキャプテンをつとめただけあり、一番手という大役をかなり落ち着いてこなすも、次の人がチャラテンションで奮闘を台無しにした。なお翌年も決意表明会がサプライズ開催され、ビックリしながらも一番手を務めた。 2013年9月4日の日ハム戦では、パ・リーグ記録となる6時間1分の長時間試合を自身の3ランで制す。ヒロインに出てきた時には日付けが既に変わっており、挨拶でも「今日も頑張ります」とアドリブの効いたコメントを述べた。さらに2014年5月28日のDeNA戦は前述の試合に次ぐ、5時間21分という球団2位の長時間試合となったが、1本塁打含む4安打を放ち(しかも自身のエラーが絡み追いつかれた)、またもヒーローに選ばれるという野球好きっぷりを発揮。応援歌の「愛する男さ」は「野球を愛する男さ」という意味…なのかもしれない。 2012年ファン感謝祭のストラックアウトでは、森福のフォームを取り入れ、難易度の高いボードの左下スミ(80点)に見事当てる。 得点時にハイタッチの代わりに「ももクロポーズ」をするのが一時期流行った際に、柳田に「でも晃だけはやってくれないんですよ」と暴露されていた。ちなみに中村本人はそんな周囲の影響から、一時しっかりももクロファンになっていた。 プロ2年目から気付いたことをメモする・キャンプ中に課されたリポートには自分の課題、取り組みをびっしりと書き込むなど、しっかりした考えのもと行動しており、秋山監督からも「若いのに……」と感心されたことがある。 柳田は魚好き仲間でもあり、よく食事に出かけるそうで2014年に日米野球の代表に選ばれたものの、怪我により代表辞退した際には「一緒にどこに行こうってスケジュール立ててたのに」などローカル番組で柳田に暴露されている。柳田曰く「好きなところは目と構え」。年下だが柳田にはタメ口で「はよせぇよ、お前」などと言うこともあるらしい。 2014年のリーグ優勝チームが決まる「10.2」では、延長10回に先頭バッターのギータに「塁に出ることだけ考えろ」とアドバイスを送り、HRを打ちたいと思っていたギータのよんたまひいてはサヨナラ勝ちのお膳立てに関わった。ちなみに柳田はサヨナラヒットを打った松田の打席では、松田が三振すると思っており「(松田の次の)晃やったら打ってくれると思って見ていたら松田さんがサヨナラヒットでしたからね」と発言している。松田「」 埼玉出身な事もあって、実家の部屋には西武選手のポスターが多く貼られており、子供の頃は西武ドームに通っていたらしい。憧れた選手は松井稼頭央で、番組の企画で「背番号7に昔から憧れていたらしいが、それは当時西武の松井稼頭央なのか、入団当時のホークス背番号7大村なのか」と松井稼頭央本人から質問され「元祖は松井さんで、ソフトバンクに入団してからは大村さんです」と照れながら答えている。
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藤岡好明 背番号40 投手 右投左打 大阪府出身。宮崎日大高校からJR九州に入団。2005年の大学生・社会人ドラフトで3位指名されホークスに入団。DeNAの下園は宮崎日大高校の同級生。チームメイトの武田も同校出身で、武田初先発の試合では、延岡学園出身の神内と共に宮崎リレーを成立させた。 チーム内での愛称は「たごっち」「田吾作」(顔の印象や、V6のイノッチと掛けてある)、「スマイリー」。たかせん内では、藤岡弘と名字が同じことから「隊長」または「ライダー」と呼ぶ人も。 ニコニコ笑顔(地顔)とサイドスローから投げる速球や、変化球の多さが武器。 一応先発でも中継ぎ(ロングリリーフ含)でもイケるが、先発した場合の結果は推して知るべし。 2006年には開幕一軍入りすると、王政権の下、大車輪の活躍で当時のパ・リーグ新人最多登板記録を更新(後に記録を塗り替えたのはチームメイトの攝津)。が、登板過多や故障に苛まれ、翌年から徐々に調子を落とし一軍と二軍の間を行ったり来たりする存在に。 特に接戦時には登板→追いつけるかもしれないという淡い期待を打ち砕く、という芸術的展開を幾度もやってのけた。 2012年からは徐々に勝ち継投での登板も増えるが、空白期間が多いため、まだまだたかせん民を充分ドキドキさせている。 2012年8月26日のロッテ戦で中継ぎとして登板。相手投手が同姓の藤岡であったため、藤岡VS藤岡が実現し、たかせんかもめせん民ヒートアップ。「勝:藤岡 負:藤岡」が期待されるも、ドローのため叶わず。 2013年シーズン前半戦は、先発陣が頼りなかったこともありピンチになるとすぐに登板するなど、間違いなく投の面でチームの屋台骨となった。が、6月に内臓疾患により一ヵ月ほどの入院を余儀なくされることに。この入院で約8kgも痩せたそう。監督に「急げとも言わないが急ぐなとも言わない」と言われたことに期待を感じ、ただいま早期復帰を目指し中。またマウンドでのニコニコ姿を待ってます。が、12月25日に鶴岡の人的補償として日ハムへの移籍が決まる。復活登板が見られないのはとても残念だけれど、今後はぜひ新天地でまたぜひ元気な姿を見せてください。今まで本当にありがとう。ハムさん、藤岡のことよろしくお願いします。 ハム移籍後はブランクもあり、二軍スタートであったが、5月15日に一軍昇格すると、17日の対ロッテ戦11回表に登板。その裏、サヨナラがあったことで移籍後初勝利初ヒロインとなった。これからもホークス戦以外でがんばれ!そして、おかえりなさい。 2016年3月18日に、オープン戦ながらついに移籍後初めてホークス勢と対戦した(そして抑える)。 しかし、3月30日に金銭トレードでベイスターズへまたまた移籍することが決まった。 エピソード 誕生日は3月12日で、チームメイトの坂田と同じ。 近年まで先発役に色気を出すことがあったが、それを知った馬原に「まだそんなこと言ってんのか!」と怒られたこともあり、現在は中継ぎで頑張ろうと考えているようだ。 川﨑だけには「スマイル」と呼ばれている。 かつてトークショーで、チームメイトから腹黒キャラだといじられているという話をしていた。
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嘉弥真新也 背番号57 投手 左投左打 2011年ドラフト5位指名でJX-ENEOSからホークスに入団。社会人野球では特にエースというほどではなかったが、多彩な変化球と完成度の高さ、左の中継ぎ不足もあってスカウトに目を付けられた。 名字の読みはかやまである。読める気がしない。呼びやすさからたかせんでは「カヤマン」「かやまん」と呼ばれることが多い。本人は入団会見で特にあだ名はないと述べていたが、その後雑誌でクラブ時代から「ユウゾウ」と呼ばれていると明かしている。その由来はもちろん加山雄三。 ナックルボールのように不規則な軌道で沈む「嘉弥真ボール」、2001年第73回選抜高等学校野球大会にて宜野座高校が使用し、話題となった「宜野座カーブ」の使い手(後者は、ビッグ開発ベースボールクラブ時代に宜野座高校まで出向き伝授してもらったとのこと)。 172cmという小柄な体格と、左腕の即戦力投手ということで森福のような活躍が期待される。 ホークスのドラフト5位指名といえば、ここ最近では本多や長谷川、攝津と活躍する傾向にある。本人も即戦力として動くと気持ちは十分。故障に気をつけて頑張ってほしい。 入団会見では、入団までに苦労があったのではないですかと話を振られ、言葉に詰まり涙を流す場面も。「今までのことを考えていたら、お世話になった人の顔が浮かんできて……」とのこと。その苦労人な背景を窺わせる雰囲気で、たかせん民の心をたちまち掴む。 2011年12月4日には、ルーキーとして異例のスピードで西戸崎の寮に入寮。 2012年オープン戦初日には、登板予定はなかったものの先発川原の危険球退場により急きょ登板。ブルペンは立ち投げで2球、マウンドでも7球投げただけで「いかないといけないでしょ、もう大丈夫」と気持ちと肩を作り、「まだ時間の余裕はあるから」と話していた高山コーチを驚かせた。2回無失点の好投でオープン戦ながら初白星を得る。 2012年5月2日に1軍に緊急初昇格も、札ドのロッカールームの場所がわからずウロウロするというエピソードが新聞に掲載される。その後無事に森福に案内してもらったもよう。かやまん可愛いよかやまん。 2012年5月4日にプロ初登板。1回と1/3を投げて無失点。プロじゃない投手先発の試合でたかせん住民が早々反省会する中、小柄さと相まって清涼剤となる。 2013年シーズンは、二軍で安定した成績を残すと前半に一軍へ昇格。7月15日の鴎戦で満塁の場面から登板しきっちり仕事を果たすと、味方の逆転もあってプロ初勝利を手にした。特に後半は「登板するたび、成長している」と解説者に言われるほど頑張りを見せ、「35試合以上登板したら高級時計を買ってやる」という森福との約束をクリア。海外の時計を買ってもらったのだそう。 エピソード 2016年オフに同県出身の女性と結婚したことを発表している。 チーム内では、「スティッチ」に似ていると言われている。 JX-ENEOSのHPに理想の選手に杉内、目標とする選手に和田を挙げている。 隠れた特技として「鼻から水を吸って目から出す」というのがあるらしかったが、番組で実演するも失敗して鼻から水を垂らす (度胸について聞かれ)「チキンなんで……だけど大丈夫です。チキンじゃないです」←!? 故郷石垣島の親戚の数は100人を超える。親戚内では既に「嘉弥真Tシャツ」なるものが作られているらしい。 同い年の岩嵜と仲が良いらしく、岩嵜Twitterでも変顔を披露している。 嘉弥真という名字は全国ランキングで57577位の珍名である。
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♪ここでぶちかませ 鍛えたウデ見せて力は負けないぜ 柴原行け (かっ飛ばせー柴原) 柴原洋 解説者 福岡県北九州市出身。九州共立大卒。 名前の読みは「ひろし」。 選手時代 1996年ドラフト3位指名で九州共立大からホークスに入団。当時の背番号は「31」。ちなみにこの年はドラフト1位が井口、2位が松中、4位にクララ、5位に岡本といったメンツで「反則ドラフト」とも呼ばれた。ごもっともである。 1997年に新人で唯一、開幕一軍入りするも結果を残せず。しかし翌年には確実性のあるバッティングに切り替え活躍。ベストナインに選ばれる。 1999、2003年と二度の日本一に貢献。2001年には1試合4二塁打とプロ野球タイ記録をはじき出している。 2004年には尊敬するアッキーの背番号「1」を受け継ぐも、その代償か、記録ではなく腰が大ブレイク。この腰痛とは引退まで付き合うこととなる。 2008年の開幕戦では楽天のドミンゴ・グスマンからサヨナラ3ランを放ち(いわゆる「ドミンゴwwww」)、久米に新人開幕勝利をもたらした。なお、開幕戦逆転サヨナラホームランは伊東勤に次いで史上二人目の快挙。 「代打・柴原」がコールされるとファンが湧くほど人気は安定していたが、腰痛に苦しみ代打での出場が増える。 2010年CSに敗れた後は 「いつも、ベンチで悔しかった。このクライマックスでも悔しかった。 でもファンのみんなの代打で出た時の大歓声、ネクストバッターズサークルから打席に向かうまでの大歓声。あれはずっと忘れないとおもう。マジに涙出そうになった。待っててくれたんだって。誰よりも、すごい大歓声で、出迎えてくれた。だからこそ来年レギュラーになって、たくさん たくさん みんなの前にたって俺の姿を見てもらいたい。歯を食いしばってがんばりたい。 悔いのないようにしたい。来年一年、最後のつもりで俺は やるよ」 とブログを更新。 迎えた2011年はヒット1本で終わり(ヒットを打った時は球場もベンチも大盛り上がりだった)、11月にブログで引退を表明。引退後は野球評論家に転身する予定だが、将来的にはホークスのコーチとして戻ってきたいと会見で発言した。 2012年3月4日のロッテとのオープン戦後では引退セレモニーを実施。メモリアルバッターボックスでは、ファースト松中、セカンド井口、サード小久保、ショート鳥越というダイエー時代の内野守備陣形に、涙と笑いがこみ上げるたかせん民続出。主審は内川、投手は松田であった。松田のなかなか良い球が再三のボール判定、疑惑のファール判定など挟みつつも、結果は井口の意図的エラーによるランニングホームラン。井口と、残ってくれたロッテファンに感謝。 引退後 2012年3月7日に日テレプラスで解説者デビュー。「淀みなくていい」「監督の解説時代の数倍いい」と当初はたかせん民から好評を得たものの、最近は「話す内容がネガティブ」と厳しい声も。地上波で解説することもある。解説時の口癖は「ですねー」。 2012年6月13日、ローカル番組「ドォーモ」の企画で、始球式で投げることに。140km/h台を出すことを厳命されるが、当日は119km/hのARAKAKIに終わった。なお、この日の先発は本家ARAKAKIその人である。 エピソード とりあえず口が半開き。 アッキーのことが大好きだが、引退後にローカル番組でインタビューをする際にはガチガチに緊張している様子が映し出された。アッキー引退の試合ではお立ち台に上がり、「秋山さんのために今日は何としても勝ちたかった」と涙を浮かべている。 俊足だがプロ通算の盗塁数はそう多くない。 2007年には北九州市長選挙のCMに出演したり、ブログでもえらい人とのツーショットをちょくちょく掲載するなど、政界から声がかけられそうな感じである。 2010年オフの契約更改では、小林至らないと衝突。小林の選手名鑑パラ読みなどが暴露され、たかせん民の小林への不信感を買う。 Tシャツデザインが好きなようで、よくコラボ販売している。 地元北九州で大変人気があり、北九州市民球場で出番が回ってこないとブーイングが起こっていた。 地元福岡の生え抜き選手ということで人気はあるものの、本人は大して自分は人気がないと思っているらしく、2010年のCS中には「ファンのみなさん、代打で出た時の大歓声ありがとうございました。すごく感激しながら打席に入りました。打てたら流れをかえれたような気がしたんですがセンターフライに終わってしまいました。でもその歓声がサヨナラの最後の打席をもっと、気持ちをかきたたせてくれたとおもいます。チャンスで、決めたい。そう思わせてくれた大歓声でした。その結果が、身体をはったデッドボールになったのでは ないかと おもいます」と感謝の気持ちを二回に渡りブログに綴っている。 娘さんが二人おり、柴原に顔が似ている。 一人で動物園を堪能したことがある。
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新垣渚 背番号18 投手 右投右打 松坂世代であり、永遠のロマン枠。ARAKAKI。 2002年に自由獲得枠で九州共立大学からホークスに入団。 150kmを越す剛速球と、キレはあるが調子の善し悪しが激しすぎる変化球の使い手で多くの三振を奪ってきた。特にスライダーに対して山﨑武司(竜)は「調子の良いときは、伊藤智仁や斎藤雅樹以上にキレがある」と発言している。 1試合最多暴投という大変名誉ない記録のセ・パ両リーグ記録保持者として、球史に名を刻んでいる。 入団後数年は、奪三振王や2桁勝利を手にするなど、力があることを証明するも、次第に代名詞であるARAKAKI(下記に詳しい)が暴走。怪我もあって二軍暮らしが続く。 2010年、2011年に1軍で投げることはなかったが、2011年はアジアシリーズにばっさんの後を受けて登板。5回を無失点に抑えて勝利投手に!復活なるか…?という希望を住民に持たせる。 迎えた2012年は心機一転し、本人曰く「7割の力で投げる」とモデルチェンジ。変化球も代名詞とも言えるスライダーを変化の小さいものに、決め球をフォークに変更し、三振にこだわらずに打たせてとるピッチングに切り替えたことが功を奏している模様。キャンプから好調を維持し、オープン戦最終登板では6回途中100球1失点と誰かさんみたいな結果ではあったが開幕3戦目で先発登板。元鷹の寺原と投げ合い、9回を120球5安打1失点無四死球(でも1ARAKAKI)完投勝利。モデルチェンジは成功だった模様。ピンチでも動じない一味違ったなんくるないさーっぷりも魅せてくれた。おかえりなさい。ヒロインでは涙を流し、たかせん民の涙腺も崩壊に持ち込んだ。 2012年シーズンは前年のホールトン枠なのか圧倒的援護を受け、防御率と援護率の差がおかしなことになっている。二軍ではプロリハビリコーチに指導されていたという情報もあり、彼の現役時代の勝ち運が宿ったという見解も。 2012年6月23日のハム戦では、0回0/3を投げて1死も取れないまま3失点と自滅。たかせん住民を唖然とさせるも、中継ぎと打線の頑張りで負けが消えるというおかしな結果に。試合後の監督インタビューではしっかりと「渚くん」呼びされた。 2014年7月20日に、山中さんと二人、トレードでヤクルトに移籍することが発表された。ぜひ新天地でチャンスを掴んでほしい。良い時も悪い時も、12年間ありがとう。ヤクルトでの新背番号は、憧れの人の背番号を希望し「66」。 2015年4月9日の中日ドラゴンズ戦で、今季初先発。二軍の試合でバッテリーを組み、球質を熟知する捕手西田とバッテリーを組み、西田の「どんな球でも止める。僕は新垣さん専用の壁なんで!」という意気込みのもと、5回2四球1暴投2失点という「らしい」結果を残すと、味方の援護によって移籍後初白星をあげた。サンキュー燕打線 西田くん! 2016年5月17日には史上3人目となる100暴投を記録した。曰く「どんな記録でも名前が残るのはいいこと」。が、シーズンが終了すると球団より戦力外通告を受けた。 ARAKAKI 代名詞に「暴投王」(命名は王さん)と付くほど、暴投で知られる。 2007年、新たに習得したシュートのすっぽ抜けが続出し、1試合4暴投(プロ野球タイ記録)を記録。7月11日には石井一久の持つシーズン20暴投のプロ野球記録に並び、次の登板で2暴投。あっさり記録更新。その後は怪我で戦線離脱するものの、最終的にはシーズン25暴投というプロ野球記録を残した。もし、戦線離脱していなければ今頃どうなっていたかというのは想像に難くない。2014年、ヤクルト移籍後、初先発でいきなり初回に挨拶代わりのよんたま・死球・暴投を達成。さらに2度目の先発ではリーグ記録に並ぶ1試合4暴投を記録し、両リーグの記録保持者として球史に名前を残してしまった。 上記のようなこともあり、新垣=暴投の図式が定着。暴投そのものがいつしかARAKAKIと呼ばれるに至った。ある意味この呼び名が広く知られるようになったおかげで、間違って「あらがき」と呼ばれることがぐっと減っている。 2008年も開幕から暴投を連発。1イニング3暴投のプロ野球タイ記録、1試合5暴投のプロ野球新記録を打ち立て、そのまま不振で二軍落ち。シーズン終盤に復帰後は暴投は激減したが、シーズン15暴投で2年連続最多暴投という不名誉な記録を残した。 2012年はARAKAKIを減らすために、本人曰く「大きい変化球」を捨て「小さい変化球」で組み立てるピッチングスタイルに。→たかせん民「あれで小さい変化球…だと?」 その効果かARAKAKIの全体数は減ったのだが、代わりに相手投手や味方投手にARAKAKIが伝染する率がUP。新垣が先発した4月26日の9回にファルケン先生が逆転満塁HRを浴びたのも、ARAKAKI力のせいかもしれない…? エピソード 「泣き虫渚」の異名(?)を持ち、泣くこともしばしば。 沖縄生まれで、性格は「なんくるないさ〜」そのもの。一番最後にグラウンド入りすることもままある。 奥さんは杉内の義妹(杉内奥さんの妹)であるため、杉内とは義兄弟の関係に当たる。なお、奥さんの名前は「ゆい」さんらしく、“新垣ゆい”となるのは同姓同名の芸能人とは何の関係もない…ハズ。お子さんは女の子が2人。 松坂大輔とは親友で、松坂が入籍した際には「なぜか自分へ『おめでとう』メールがたくさん来た」と話している。2014年12月に松坂がホークス入りするばかりか、自身の背番号「18」をつけると知り、「他の人じゃなく、大輔でよかったよ」と応じたのだそう。 おすぎ(杉内ではなくタレントの方)に気に入られ、食事会など寵愛を受けているとか。 おじいさんがアメリカ人であるため、実はクオーター。 元チームメイトの森本学が間違えられたことのある人物その1。 近鉄と檻が球団合併するか否かで球界全体が揺れた2004年、9月末の近鉄戦に登板。ヒロインで「来年も近鉄と戦いたいです!」と言って大歓声を受けた。 ヒーローインタビュー 涙のお立ち台
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吉本亮 ホークスの球団スタッフのキューバ人であり元帝王である。 1998年ドラフト1位指名を受け、ホークスに入団。背番号は「5」(1999〜2005年)。 ホークス二軍の帝王を象徴する存在で、かつては松坂世代最強打者と言われたこともある。…のだが、どんなにウエスタンリーグで結果を残そうが、登録名を「吉本龍生」(2004-2005年)に変えようが、一軍に上がると結果が出せず。途中、背番号が「50」(2006-2008年)が変更となるものの、その年のオフには戦力外となってしまった。 ヤクルトに拾ってもらい、2009年からは背番号「40」を付けてプレー。この年の巨人戦でプロ入り初HRを打ちお立ち台に上がった。濃い顔立ちと明るいキャラで人気もあったため、この知らせにたかせん大歓喜。王さんが「俺が死ぬ前にHRを打てよ」と約束させたことをプロ11年目してようやく果たしたことになる。 2011年には2度目の戦力外通告を受け、ヤクルトを退団。 2012年1月16日にホークスのチーム運営スタッフになることが決定!おかえり!打撃投手入りが決まっていた輝に続く古巣帰還となった。 2012年2月3日にTwitterを開始!なぜかアイコンはぺーにゃんである。 エピソード 「サロン通いをしているわけでもないのに黒い」と、燕時代の球団プロフィールで川島慶三からコメントされている。 その風体から、あだ名は「キューバ人」。しかし、実は生粋の熊本県人であったりする。2008年北京五輪の年には、練習中に鳥越からノックを受けていて、エラーすると「お前そんなんやからキューバ代表落ちしたんやぞ!」とからかい混じりの叱咤をされていたそう。 2014年1月30日には、川﨑がパーソナリティをつとめた「川崎宗則のオールナイトニッポンGOLD」に急きょ電話出演。サプライズであったため、居酒屋からの電話応対となった。
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岩嵜翔 背番号17 投手 右投右打 本来は「岩嵜 (崎の字は山かんむりに立・可)」であるが一部メディアでは「岩崎」と記載される。 2007年のドラフトにて、翔さん(公)を外したホークスと由規(燕)を外した中日が競合。その結果、高校生ドラフト1位で市立船橋高校からホークスに入団。 スタイルから斉藤和巳2世を期待されるも、力投型かコントロール型に進むのが良いのか、たかせん住民の中でも意見が分かれる。とはいえ、期待されているのも事実である。 MAX150km/h台の速球やスライダー、フォーク、カーブやチェンジアップが武器。 NPB史上初のファーム日本選手権で2度MVPに輝いた選手でもある。 入団一年目は二軍で12試合を投げて5勝2敗。防御率1.93と安定感ある成績を残し、一軍登板へ。結果は3回3失点だったが、ホークスでは寺原以来6年ぶりの高卒ルーキー一軍登板となった。この年、ファーム日本一決定戦に先発登板すると、優勝投手となりMVPも受賞した。 2010年オフ、ばっさん(と倉野コーチ)と一緒にウィンタリーグへ派遣。成績を残さなければ即帰国という条件下、「向こうで太ってくれたらいいな」くらいのたかせん民の期待の中、覚えたてのツーシームを活かし、なんと最多勝投手や週間MVP 右投手ベストナインを記録!ばっさんと共にオールスターにも選ばれ、地元新聞紙には「マウンド上の寿司職人」という、ツッコミが追いつかない紹介を受ける。倉野コーチの体重と髪型がボリュームアップする中、岩嵜自体は体重が増え、そして戻った。おお、もう…。あまりの活躍ぶりに、カグアス側から「プレーオフもぜひ出場してくれ」と持ちかけられ、本人も行けるならと乗り気だったが、おとなのじじょうで叶わず。 こうしたオフの活躍から迎えた2011年、紆余曲折ありながらも10回目の先発登板で初勝利を手にすると、ヒロインで男泣き。「いずれはホークスのエースと呼ばれるような投手になりたい」と発言して、たかせん民を沸かせた。 交流戦では、燕のエース館山と対決。勢いに乗っていた燕打線相手になんとか力を出し切り、雨で5回終了になるも初完投をマーク。先発陣の充実もあり登板間隔が半月~一ヵ月と空く中、交流戦後の楽天戦では初完封。それも、奪った三振が0個という大変珍しい形(1995年の日ハム・グロス以来16年ぶり)での完封劇である。 2011年オフにはアッキーの口添えで、ダルの自主トレに帯同。しかしその後、球速を求めるようになり細川には「良さが消えた」とダメ出しをくらう。 2012年は一時ローテ落ちとの報道もあったが最終的には開幕ローテ入り。同郷の同期・唐川と何度か千葉対決が勃発も、唐川なんて打てる気せーへん打線のムエンゴが続いたりする中、自身のメンタルにも響き、昨年得意とした球団からも慣れかずるずる点を取られるように。 シーズン中盤から中継ぎを経験。150km超えのストレート、140kmのフォーク、迫力のあるワインドアップとどこかで聞いたような姿に一部住民が頭痛や記憶障害を訴えた。ちなみにコーチとしてこの人が岩嵜に一部指導したのは事実である。 「中継ぎ岩嵜は癒し」「先発岩嵜と中継ぎ岩嵜は別人」などと住民に安定感を褒められるも、今後先発に戻れるかはこの人の頑張り次第である。まだまだ若いので頑張れ! 期待を背負って、2013年1月に背番号が「21」に変更。和田にも「お前なら『21』を着けてもいい。大丈夫」と太鼓判を押された。千賀「」 どっこい、2015年オフに和田のホークス復帰が決まると、「21」を返す形となった。岩嵜「」新背番号は「17」。和田から背番号を奪い返すような活躍を期待したい。 エピソード 新聞などで「甘いマスク」や「端整な顔立ち」などと書かれる通り、若鷹のイケメン枠である。 出身が市立船橋ということもあり、それにちなみふなっしーの「ふなふなふなっしー♪」を登場曲に使ったことも。 財布と縁があるらしく、契約金では両親におそろいの財布をプレゼントしたというエピソードや、初勝利前日には財布をなくしてブルーだったというエピソードが挙げられている(なお、初勝利記念に森福に財布をプレゼントしてもらったとのこと)。 ビールかけでは、白鳥のかぶり物で登場。 大舞台に縁があるのか、2008年のファーム日本選手権、2011年のリーグ優勝決定試合、アジアシリーズの決勝戦(※せっつんの肩の違和感のため代役登板)、2014、2015年のファーム日本選手権のいずれにも先発登板している。ちなみに先発したファーム日本選手権では2度勝ち投手となり、史上初めて2回MVPに選ばれている。 なかなか強気な一面もあり、2011年8月16日鷲戦ヒロインでは「細川さんに『ボールがヘロヘロしてるぞ』と言われて、ちょっとイラッとしました」や杉内FAに対して「(杉内さんには)残って欲しいが、出て行くならチャンス」などといった言葉を残している。 2012年新春特番では、(細川に「でかいこと言え」と言わされたのだがが)「2012年は沢村賞獲ります」宣言。いずれ・・・ね。 森福とは仲が良いようで、V旅行先で「せっかくだから」と色違いのアロハシャツを購入。エピソードを聞いた山田に「彼女か」と突っ込まれる。 ちなみに山田とツイッターで絡むことも時々あり、2012年初勝利の日には「ちょめさんに繋ぎまくりましょう(^^)」「やっぱりちょめさんに「投げさせてください」って言われるくらい完投しまくりましょう(^^)」などと言っていた。 Twitterのアイコンは細川とのツーショット。攝津「」